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信長の野望創造PK攻略 「厳島の戦い」浦上/宇喜多家中級プレイ4 [信長の野望創造PK]

直家との因縁が深い連中が集まった松田家を1556年1月に滅ぼし、
備中高松城を三村家から強奪して戦国伝「狙撃」は達成したところから再開です。
松田家は新勢力なので戦国伝に一切関係しませんが。

そして、遂に直家が主家である浦上家に謀反を起こします。
それを描いたのが今回の戦国伝「下克上」です。
下克上はこの乱世のトレンド(流行)とも言える現象で、
明智光秀が織田信長を本能寺の変で討つ、
大内義隆に対して陶晴賢が大寧寺の変で討つ、
斎藤道三が美濃守護の土岐頼芸を追放するなどがこれに該当します。
ちなみに具体例であげた3つは全部創造PKの歴史イベントにあったりします。
今回のこれは宇喜多直家が浦上宗景を備前から放逐するというものです。

史実では直家の娘婿にして宗景の嫡男である浦上宗次を毒殺したうえに、
一度は敵対した毛利家と手を組んで
宗景の兄である浦上政宗の孫を擁立して謀反を起こしています。
そしてその浦上政宗の孫も母親もろとも毒殺して浦上家を完全に滅亡に追いやっています。
宗次の嫁だった娘も当然、直家を恨んで自害しました。
今回のプレイでは浦上家は滅ぶどころか逆に姻戚として活躍しますが……
その理由はまた後ほど……
どちらにせよ戦国大名としての浦上家は終わりますが。
そして浦上宗次はPKにすら出ていませんし、
登録武将としてすら出していません。

先の話は2回目の謀反のお話で、実は前だって謀反を起こしていたりします。
その時は赤松家を後ろ盾に宗景を攻め込む算段だったようですが、
それが上洛を果たした織田家が播磨に攻め入ったのと、
赤松家の内部でごたごたが発生したことが原因で助勢を得られず、
やむを得ずまた臣下に戻りました。

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赤松家に頼ろうとして失敗した直家。まずは自分の過ちを清算するところから。


はい、これは信長包囲網結託の原因となっている背景の1つです。
つまり、史実ではまだ14年も先の話です。
今回は1556年冬に起きているので、織田家による播磨侵攻は当然ありません。
そして宗景の兄である政宗も健在です。
多分政宗と赤松一門衆の間で何かあったのではないかなと思ったりします。
現に政宗は赤松政秀に襲われて討たれましたし。

という訳で戦国伝を開始。最初に提示された条件は「赤松家を滅亡させる」です。
備中高松城を攻略した直後ということもあって、兵力が疲弊していたので一旦全て撤収。
三好家と毛利家に工作を仕掛けながら内政を1年しました。
そして備中松山城を攻撃、1556年12月に三村家を滅亡させました。
続けて亀迫城を陣取る魏に攻め込みました。
すると、1557年1月に外交している三好家から曹操率いる魏と停戦を結ぶよう要求が来ました。

中級以上でかつ攻め込んでいる大名家の格付けが高いと、
その大名は他の大名家に停戦仲介を依頼することがあるのですよね。
中級だと格付Sの大名家がこれをしてきます。
停戦仲介は停戦させる2つの勢力が、
仲介する勢力と同等かその勢力よりも小さい勢力である必要があります。
なので、今回は唯一浦上家よりも多く本城を持つ三好家が停戦を要請してきたというワケです。
ちなみに尼子家は本城数が2、三好家が4、その他が1以下でした。
これに応じると、交戦中の勢力と6ヶ月の停戦を結ぶ代わりに、
仲介してきた勢力の信用が50あがります。
これに応じて一度全て撤兵。
これによって三好家の信用が80を超えたので24ヶ月の同盟を締結しました。

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曹操に宣戦布告。この物量では流石のチートでも勝てない。


次回、遂に直家が戦国大名として自立します。
梟雄が戦、とくとご覧あれ!
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